日常茶飯の清水 ~経営者の器=三位一体~
- 赤田 元日出

- 2月23日
- 読了時間: 4分
キリスト教世界で
三位一体(さんみいったい)と言えば、
父(=父なる神・主権)
子(=神の子・子なるイエス・キリスト)
霊(=聖霊・聖神)
の三者が、もともと一つであるという意味です。
この三位一体は、いろいろな場面で使われます。
「潜在意識、顕在意識、超意識(神性)」という宗教的・心理学的な意味や
小泉内閣時代には、「三位一体の改革」というスローガンとしても使われました。
経営においても
この三位一体があるのではないでしょうか。
「会社(事業)は、経営者の器(うつわ)以上には大きくならない」というときの「器」が
まさに、三位一体を表していると思っています。
そして、私は、
この経営者の器が「心技体」の三位一体であると考えています。
まずは、「心」。
これは、「人徳」と言えるものです。
経営者としては、従業員に対する思いやりの念、
そして、
人の世のために尽くすという誠意ある信念が
人徳の中心といえるものです。
「愛」といいかえることもできるでしょう。
中国古典の大家である守屋洋氏によれば、徳を下記のように説明しています。
「たとえば、地位や能力を鼻にかけて人を見下さない謙虚さ、
大きく人を包み込んでいく寛容性、
あるいは、常に温かい配慮を忘れない思いやりの心、
さらには、約束したことは必ず守る審議の厚さ。
こういうものが混然一体となって形成されるのが
徳と言ってよいでしょう」(守屋洋「四書五経の名言録」)
次に「技」。
これは、「経営や事業に関する知識・技術」と言えるでしょう。
これがあってこそ
その事業を拡大成長させたり
経営を順調に行ったりすることが可能になるでしょう。
そして、「体」。
物質世界で活躍する以上、
健康で健全な肉体がなくては行動できません。
この心技体がバランスよく成長拡大していくのが
器が大きくなっていく、といえるでしょう。
では、
この3つのうち、どれを重視するのか。
「菜根譚」の140項には下記のような記載があります。
徳は才の主にして、才は徳の奴(ど)なり。
才有り徳無きは、家に主なくして、奴の事を用(もち)うるが如し。
幾何(いかん)ぞ魍魎(もうりょう)にして猖狂(しょうきょう)せざらん。
人格は一家の主人公のようなもので、才能は主人公である人格に仕えている召使である。
人格は本で、才能は末である。
それで、才能がすぐれていても人格の劣った者は、家に主人公がいなくて、
召使が気ままに家事を切り回して、のさばっているようなものである。
そのようなことでは、どうして、怪物どもがすきに乗じて暴れ狂わないであろうか。
これこそ、本末主従を転倒(ひっくり返す)するものである。
心の奥にある大切な主人公がしっかりしていないと、多くの煩悩・妄想がのさばって、
遂に本来清明な本心をくらまして、人間をだめにしてしまう。(久須本文雄「座右版 菜根譚」)
また、157項では、直接的に、
「徳は事業の基(もとい)なり」
(人格というものは総ての事業の基礎となるものである)(同著)
とも言っています。
そして、
「西郷南洲遺訓」の中では、下記のように記載されています。
重要な官職は、その人の資質、能力をよく選んで授けるべきで、
功績があった人には給料やご褒美を与えて報い、感謝するのがよいと思う。
そう南洲翁(西郷隆盛)がおっしゃるので、
それでは尚書(中国の最も古い経典「書経」)の中の管理人用の辞令書に
「人徳の高いものには官職を与え、功績の多いものには褒賞を多くする」というのがあるが
この意味でしょうかと尋ねたところ、
南洲翁は喜ばれ、「まったくその通りだ」と答えられた。(桑畑正樹現代語訳「西郷南洲遺訓」)
いずれも、人徳を重視しています。
そして、
この人徳は、一朝一夕に身に着けるようなものではなく
日々の学習と、それを実生活に活かしていく中で
鍛錬されていくものなのでしょう。
私自身も、朝読み夕読みにより知識を深め
その知識を日々の生活や業務に意識して行動に移し
早朝に運動を行って体を健康に保ち、
そして朝夕、瞑想を行って、自己鍛錬を続けています。
カメの歩みのごとくではあっても
自己の器を鍛えているところです。
さて、
確定申告シーズンとなりました。
シーズンに突入するにあたり
我が事務所では
決起大会の昼食会を行いました。
会場は、志布志の割烹料理「沙咲楽」さん。


スタッフのリクエストで
刺身メニューが含まれる「若葉」膳を予約。
前菜から丁寧な味付けで、楽しませていただきました。
パワーも湧き上がってきたところで
確定申告シーズンを駆け抜けていきます!



























コメント